作品紹介・鮎川義介について

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作品紹介

舞台「GISKE-ギスケ-」について

日産コンツェルン総帥・鮎川義介氏の生涯を描く舞台プロジェクト「GISKE」。
10,000社をそだてた不屈の精神を描いたストーリです。彼を知らずして、日本の経営者は名乗れない!!

国のため、10,000社をそだてた男

明治時代、長州士族の長男として生まれた鮎川義介氏は、大叔父が政治家で実業家・井上馨氏であったことから、親族の協力のもと日本を代表する経営者となります。
彼は「決して金持ちにはならない」ことを誓い、東京帝大を卒業したにも関わらず、一職工に紛れて働くことを決意。

激動の半生、不屈の精神を描いたストーリ

しかし、日本の工場がすべて外国の模倣だと気づくや否や、本場の技術を学ぶために渡米します。

今回2019年11月16日(土)の舞台では、鮎川義介氏が「日産コンツェルン」を創設するに至る激動の半生を上演します!

STORY

作品あらすじ

鮎川雅子は、亡き夫・金次郎の面影を思い起こしていた。
彼がエンパイアステートビルの最上階で、プロポーズした時のことを。
彼は「天国の親父に、真っ先に報告したかった」と話した。雅子はその言葉を反芻した。
金次郎の父とは、日産コンツェルンの総帥・政財界のリーダーだった鮎川義介。
亡き父の意志を継ぎ、その使命を伝えたいと考えていた夫・・・。
一体、鮎川義介とはどういう人物だったのか・・・。
その使命とは何だったのか。亡き夫はそれを誰に伝えたかったのか・・・。

鮎川義介は明治13年、山口に生まれた。
当時、維新に貢献した長州藩士の流れを汲むこの土地は、新しい日本を背会って立つ気概に満ちていた。
義介もまた武家の血筋であり、幼な心に国家を背負って立つ覚悟は燃えていたものの、
武士の職業を失った父のもと暮らしは貧しいものだった。

義介の大叔父に維新リーダーのひとりで、中央政界の中心にいた井沢薫がいた。
彼は、長州のネットワークを生かして、中央政財界に睨みを効かせており、
鮎川家も例外なく彼の勢力図の一部として組されていた。
義介の姉や妹は政略的な婚姻関係を結び、男子であった義介はエンジニアとなって日本を背負うよう命じられた。

井沢の言いつけ通り、東京帝国大学に進学した義介は井沢家の玄関番などをしていたが、
井沢を訪ねてくる身勝手な金持ち連中や、良家の愚息たちの自堕落ぶりを見るにつけ、
縁故の採用に疑問を持ち、次第に金持ちを嫌悪するようになった。
義介は、「偉くはなるが、金持ちにはならない」という誓いを立てた。

義介は大学卒業後、井沢の命令に背いて一職工として働いた。
休日は全国の工場を視察して日本の産業の未来に思いを馳せた。
また、日本の技術が全て外国の二番煎じと気づいた後は、渡米を決意するのだった。
義介は帰国後、アメリカで学んだ可鍛鋳鉄の技術をもって会社を設立する。
しかし親族の力を頼って会社を設立した若き義介の前に、様々な難関が襲いかかるのであった。

鮎川義介について

GISKEの歩み

明治13年(1880年) 鮎川弥八の長男として、山口県吉敷郡で誕生
明治32年(1899年) 姉の節子が貝塚家に嫁ぎ、一家も九州へ移住
明治33年(1900年) 井上家の玄関番をしながら東京帝国大学で学ぶ
明治36年(1903年) 芝浦製作所(後の東芝)に就職。時習舎では子弟の面倒をみる
明治37年(1901年) 北海道視察
明治38年(1902年) 渡米して可鍛鋳鉄の技術を学ぶ
明治43年(1910年) 親族の出資を受け、戸畑鋳鉄を起業。
大正3年(1914年) 美代と結婚、九州若松へ。第一次世界大戦勃発
大正4年(1915年) 大叔父 井上 薫 死去
大正7年(1918年) 米騒動 ゲーリーシティー視察(持株会社の構想)
大正12年(1923年) 関東大震災
昭和2年(1927年) 久原鉱業の倒産危機
昭和3年(1928年) 日本産業株式会社を起業
昭和12年(1937年) 満州重工業開発の総裁に
昭和27年(1952年) 中小企業助成に取り組む
昭和42年(1967年) 死去

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